すべての人の自由な祈りのために −Pray first freely. Without what type of borders.− CFF: Church for free prayer from one of sheep in Christ 「キリストの1匹の羊からの自由な祈りのための教会」を目指して CFF小倉福音センターの祈り 人が神様に出会って信仰に進む自由、それに伴う自由な聖霊の働き、すべての人の間に居られるキリストに一致する垣根の無い交流に、私たちが自然に居られますように。 私たちの祈りは、教会コミュニティーを強化するためではなく、教会内外を問わず、神と人また人同士の出会いを大切にし、一人ひとりの人生と体験の中にある個性的なあかしが、隣人との出会いで用いられることです。 教会は、所属している人のためだけにあるのではなく、教会や聖書や信仰に触れたことのない人の救いと人生の希望になることが大きな目的です。 自分と違う歩みをする人のことをいつも考え、出会いを大切にし、愛し、教会に様々な違いがある人がやって来ることを想定して、区別の垣根や閉鎖性が一切無いようにしたい。自分に無いもの、他者性、「違い」のことをいつも考え、自然に愛し、キリストにあって垣根無く(教派の型に頼らないで)互いに受け容れたい。 信仰の交流では、互いに教派や党派心や野心の思惑から離れるよう努力し、誰も取り込まれることなく、神様との自由な個性ある関係を築き、霊的に成長して信仰的な大人として自立することを目指します。
CFF小倉福音センターの告白(教会のカルト化防止条項)について
これらは「熱心さが過熱しただけ」などという軽い事ではありません。 「問題や犠牲があっても、それを越えて伝道が進み拡大するなら、神が働いている」などと、軽々しく自己弁護に神の名を持ち出すべきではありません。 深い罪の意識と悔い改めのない教会や教職者が、神の名によって働きを誇るなら、問題は必ず起きます。このような矛盾が地上の教会にあることを告白し、私たちは日々悔い改めます。 「絶対にカルト化や虐待を起こさない」 今日の教会の現状を鑑み、この決意を表し、聖書に従って信仰姿勢を告白します。 CFF小倉福音センターの告白 次世代に健全な地上の教会を渡すために 私たち地上の目に見える信仰者の交わりとしての教会(以下「この教会」と称す)は、集会に共に集い交わるか、web記事を読み、祈り、神キリストの十字架の救いを求める人によって構成されます。 すべてのキリスト者が属する普遍的な教会(以下『教会』と称す)は、神の御子キリストの十字架によるあがないと復活を告白し、「神の前での罪の告白、へりくだり、悔い改め」と、「人の間の互いのへりくだり、赦し、愛」が、救いの完成を求める地上のキリスト者の道の基本であることを教えています。 この教会は、各個人の主張を尊重し、教職者も信徒も集会参加者も、身体と精神と信仰について自立した決断をする自由を堅持し、「個人や集団による時間的、場所的、金銭的な支配、拘束、奉仕や考えの強要」を否定し、退けます。 この教会は、来会者を分け隔てなく受け入れますが、新たな方法論やムーブメントの影響についてはすべてを信用せず、たとえ有力牧師の教説であっても、例外なく聖書的に検討し見分け吟味します。 「神の国と神の義」とは、第一義として「神が人類に与える救いの到来」のことであり、地上の地域教会が行う礼拝や活動は、必ずしも「まず第一」とはなりません。 普遍的な『教会』は、交わりや奉仕について、聖書のとおり愛と知恵の用い方を追求し、実際に最も弱い立場の方の必要を優先し、これを聖書的で普遍的なキリスト者の奉仕の姿勢として教えています この教会の働きとして組織的必要よりも、個人への助けを優先する場合があることを、すべての参加者はあらかじめ了解します。 教会の礼典・奉仕は、地上の組織的教会の教職者・教会員の専任事ではなく、すべてのキリスト者が行えます。 『教会』の伝道とは、地上の教会の働き・伝道イベントだけによるのではなく、キリスト者各自の生活の必然としての社会生活・家庭生活の中の出会いと交流の中にあり、肉の力によらず、神に与えられ生かされている各自の祈りや経験や能力・賜物に伴い、各々の立場の言葉・行動・態度に在るキリストの愛と証しが、教会の内外で霊的に伝わりあらわされます。 教会生活や教会の交わりは、日常の家庭生活・社会生活の上位にはなく、水平に置かれています。 『教会』は、ただ「父・キリスト・聖霊の三位一体の唯一の神」の位置だけが、すべての人とすべてのものの上にあることで一致します。 地上の目に見える教会では、教職者も信徒も交わりの参加者も、神の名を使って、また聖書を用いて、また教会の名で、他の人に強制的・脅迫的に教示することを、教会内外で行ってはいけないことを、常に厳に確認すべきです。 『教会』は、終末の時について、聖書に記してあるとおり「父である神がいつかを定めておられ、人の誰も、いつどこに来ると言えない」と告白しています。 CFF小倉福音センターの信仰指標
私たちクリスチャンは「牧師を上位に戴かずに、水平の交わりを心がけ、共に祈り神様を見つめて進む」、この決心を共有する「キリストのみからだの教会」の交わり・ネットワークを目標とします。現状で「頼れる人として誰か教師を自分の上に置きたがる人の弱さ」を認め、私たちは日々そこから脱出して神様に祈り、主にある交わりをいただきます。同時に、助けを求める人の祈りに、あらゆる形で呼応するクリスチャンであることを決意し、自立への助けが必ずある「みからだのネットワーク」であることを目指しています。 信徒も牧師も、互いに成長し発見する水平な信仰の場の共有者になり、同時に未完成な人生の過程、葛藤、矛盾を受け容れ、赦し合うことを目指します。 信仰で上位に立とうする人の言うことを気にするよりも、自分と隣人に寄り添いたい。 牧師が先導して負って見せる奉仕の重荷を負うのでなく、自分と愛する隣人を良く見て、負える重荷を負います。 信仰の恵み養いを得るために、「牧師や年長者が意図し規定する教会」からの信仰の脱出の場として、それぞれ自由な祈りのための「仮庵」「救護テント・シェルター」「避難所」「出エジプトの旅の荒野の幕屋」に住みます。 脱出(エクソドス)の苦難の時に、主が共に住まわれて先導し、必要を必要な分だけ養われる旅こそ、地上の人生です。この時ほど、主を近く感じることはありません。 牧師を自分の先導者にせず、自分ののどを潤す水を牧師に求めず、それぞれが神に結びつきます。祈り、自分の心の奥底から湧き出る良きものを主に求め、悪しきものも隠さずそのまま主に渡します。 <イエスは喉が渇き、サマリヤの女に水を求めました。神の御子イエスは人となられ、人よりも低くなり、人のすべてを受け入れ、人に仕え、人と交わりました。そして、人に命を与えるために、ご自分の命を捨てました。その唯一のお方です。ヨハネ4:7-26> 私たちは、人が示す模範ではなく、主ご自身を求めます。キリストの受容、あわれみと恵みを受け取り、御跡に従います。 キリスト教会カルト化について、防止・対策への活動
※扱う問題についての主なキーワード: 「信仰」という名の虐待、教会のカルト化、クリスチャンホーム、牧師家庭、クリスチャン2世、ホームスクーリング、教会学校、CS、アダルトチルドレン、聖書根本主義、ファンダメンタリスト、権威主義、福音派、聖霊派、ペンテコステ派、カリスマ派、弟子訓練、セル、教会成長、リバイバル、預言、霊の戦い、終末論
|
|||