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Sクリスチャンセンター脱会者による記録 > 管理人の体験と認識
用語など分かりかりにくい点は「Sクリスチャンセンター教義と活動」を参照ください。
管理人の体験と認識
(私が掲示板に投稿した文から)
y.niho
'03.10.23「Sクリスチャンセンター」の現状について
牧師と、献身(=預言に包まれた長老の教義に帰依)した神学生は、ほとんど思想統制下にあると言える。
思想統制は神学校のクラスと奉仕で行われる。人生や神からの召しを人質に組織への服従を迫る。
対外的に開かれた聖会、日曜礼拝ではそのイズムはあからさまに語られることはないので、信徒レベルでの参加では分からない。
彼らの間では、個人への神からの召しは預言や示し、しるし、必然的出来事などで確認されるが、その中で曲者なのは、「教会の流れ」だ。
簡単に言えば教会の方針なのだが、彼らはそれを神から来た示しだからと、絶対化し、現在はほとんどこの「教会の流れ」と長老達への示しにより人事が決められていると聞く。
この「流れ」に従うには、人への良心や愛を捨てなければならない。神を愛するには人を捨て、人に捨てられることも有ると日ごろから教えているのだ。
もちろん自己愛や個人の示しは「流れ」や長老の示しに合ってないと、切り捨てられる。個人が自分の人生のための神の導きと思えることが「一致」しない場合、間違った導きの中に居るとされるのだ。
長老が示されたと思っているリバイバルの人間的方法論が、トップの絶対的倫理であって、そのためには何をしても許されると思っている。
奉仕者とその家族の犠牲を当然の事とし、リバイバルのためには人命が落とされる事も当然とする。
方法論の中心をなすのは、長老牧師への絶対服従を要求すること、それを「神への聞き従い」と同一視することだ。
これを彼らは「権威秩序への服従」と呼ぶ。そしてそのための道具が「預言」と「示し」と「奇跡」だ。
彼らはそれに自然現象や偶然の出来事を組み合わせ、神からのものとする。また、個人に起こった奇跡まで自分達の功績かのように吹聴する。「神様に拍手しましょう」と言いながら…
彼らは、神からのものではと思えることでも、思い込みをかぶせて我がものにしてしまう。
こうして思い込みにより確認された示しや召しとそれに従う自分達自身を、神の権威と同一視し絶対化する。
神に従わず、長老預言者と主張する人の思いに「一致」している構成員により作られた「みからだ」は、泥舟だ。
'03.10.25「Sクリスチャンセンター」の長老と個人
牧師達は献身して「神への聞き従い」に命をかけていた筈なのに、いつの間にか長老に「聞き従い」になる…
神と長老が矛盾したら神を取るべきなのに…当初は神を取れと長老Aも言っていた。
しかしまたそこが巧妙で、海外宣教では安全のためリーダーに絶対服従で、「例えリーダーが間違っても神の権威と秩序なので従え。そうしたら神が守る。」
これで麻痺させられてますよね。いつの間にか日常にも波及して。
ある長老なんかは、明らかに預言やリーダーシップが彼自身の発想なのに、権威秩序だけでやってましたからね…。おまけに人の示しを勝手に吟味して脅すように自分の意見を言う。『「流れ」と違いますね〜』と。
彼もどこからが神でどこからが自分か分かってないのに(自分でそういうニュアンスのことを言ってました)、「権威秩序は神から来た」だけで全部が神ですから。
こんなことは絶対神は言わないと明らかに分かることなのに、皆彼の後ろに神が居ると思うから従う。裸の王様状態です。
大体、示しなんて誰にも確信を持って言える事ではないでしょう。示されたら、個人の中で毎日の生活や祈り、聖書を読むことで熟成されて、時が来て成就するものなのに。
あれが認められて長老であるという時点で、現場は混乱するわけです。彼に従ったら明らかに神の御心は出来ない。
そこで、非常な葛藤が起こるわけです…。しかし、立ち向かいそれを乗り越えないと人間的束縛からの救いは無い。教団内部ではこんな決断はなかなか一人ではできないですよね。誰か励ましてくれる人が居ないと。
'03/11/17(月) 17:25「Sクリスチャンセンター」は個人より組織ビジョン優先を優先する。仁保脱会の経緯
Iコリントの13章に愛の無い行いや霊的なわざは空しいと書いてあります。
イザヤ書58章には、宗教的断食のあり方が書かれています。これは当然教会の奉仕に共通すると思います。
私は主にこの二つのポイントでSクリスチャンセンタークリスチャンセンターのあり方がおかしいと思っています。
彼らの主張は、将来人が多数救われるリバイバルと呼ばれる現象で、究極的に愛が全うされるというものです。
そして彼らは、「今この時点においては、リバイバルを嫌がる悪霊のしわざで教会内に霊的死傷者が出る」と公言しています。
実際に、傷ついた人が居ることは、私も含めいろいろな掲示板に書かれている通りです。
これは客観的に見れば、一般常識的レベルでの愛の配慮の無さや、霊的なことや召しに関する脅迫で起こっている現象だと言えます。
Sクリスチャンセンタークリスチャンセンターでは、献身すれば病が治ったり、心の傷が癒されると言ったりします。
Sクリスチャンセンターは、この教会に参加する人は全て、リバイバルのために働く者として神に召されている、と捉えていますから、この教会に行けば、いずれ必ず献身が求められます。
看板や入口は癒しや預言ですが、中身は教会組織への服従です。
中に入ると、Sクリスチャンセンターだけが神に聞き従う教会(「他の教会は知らないが、我々は聞き従っている」とのフレーズを繰り返し聞かされます。)という意識にさせられるので、この教会に居ればこの教会への献身が求められるのです。
ですから、参加はお勧めできません。
多くの人が救われることを望む純粋で熱心な人が、身を犠牲にして働いています。
しかし、私の実感として、「長老牧師の指示・見解」に従った時、自分の人生の願い、重荷、ビジョン、賜物は薄れたり否定されたりして、
人それぞれの事情や弱さを認めない硬直した物の見方・価値観になり、本当に助けを求めている人を置き去りすることになると思います。
私は、この点で自由が無くなったので脱退しました。
今も残り、誠実に奉仕されている方には、教団の指示・見解と実際の伝道牧会の狭間で、苦しんでいる事と思います。
私も一年耐えましたが、改善する兆しが無いので、私の限界もあり、離れました。
もちろん、教団の指示だから仕方ないと開き直っている方も居ると思います。そういうところは変な雰囲気で分かりやすいと思いますが…
'03.11.18 一匹のひつじ掲載
Sクリスチャンセンターの健全化について
@現状から考えて、地方教会と各牧師の監督者として設定されている「長老」役職の廃止が一番のポイントでしょう。
もちろん、その後も地方教会員や牧師がこれまで通りお伺いを立てる可能性がありますから、長老経験者の監督者的発言助言も厳しく戒めるべきです。
A各教会の独自性を認めることを声明することです。
B教会相互に友情をもって各々の「ビジョン」を励まし合い、刺激し合うことです。
Sクリスチャンセンターは現在、設立当初から居る二人の責任長老が実質全て「教会の流れ」教団の方針を決定し(彼らはそれを神の示しと信じている)、北海道、東北、関東、北陸、中部、関西、中国、四国、九州、沖縄をブロックにして、そのブロックの長老が牧師会を主催して締め付けるピラミッド構造だからです。
元々、この教団のオリジナリティは、各教会が各々の賜物や個性をもって自立して神に従うことでした。
しかし、設立者が自らの「示し」の結果を急ぐばかりに未熟な人を登用し人間的に組織化、長老による監督制を開始。「リバイバル」に関する癒しや預言の現象を「手法」として、神がこうしろと言っていると、地方教会を助ける名目で全体の方針を決め、「手法」の見本とばかりに長老のブロック内各教会での「奉仕」を始めました。そしてその中で、教団設立当初から居た若い牧師達が長老になって、設立者である長老牧師夫妻の預言と体験的証しを必要以上に強調して絶対化したことで、今の状態になったと考えられます。Sクリスチャンセンターの看板を見た人が設立者の語る奇跡が起こることを求めて、地方の教会に来ていたのも単一化に拍車をかけました。
彼らは、預言・癒しなどの霊の賜物を使わなければリバイバルは来ない、霊の賜物は危険だから監督者が必要だ、という口上で、上の立場から神学生以上のメンバーを縛り、あなた方が従わなければ神が変わりの人を送ると言いました。実際奇跡を求める人は集まって来てましたから、それにも脅迫感を受けます。自分は落ちないぞと必死に組織に服従します。
改善策として原則論では、一人一人が自分の人生を生きることに常識を持つことであり、常識に照らして妥当でないことを切り捨てる勇気を持つこと、となるでしょう。
しかし、現状はそのような状況にありません。
(保守的な福音派は教会が間違うはずがないと思う傾向がありますので、「まずは祈ってへりくだれ」と言われるかもしれません。Sクリスチャンセンターもそうした福音派から出てきたものです。最も急進的な福音派は、自分たちこそが「福音と聖書主義を世に保つ」ことを「神からの使命」を自負していますし、福音派を通して「リバイバル」が起こって人類の多数派になるという「ビジョン」を持っています。以下に福音派のその発想の発展形とも言うべきもの書きますのでお読みください。)
Sクリスチャンセンターに参加すると、個人に向かって「人生における神の計画があなたにある」という言葉を、「預言」などで(神の言葉として)名指しで牧師長老が語り、続けて「あなたの神の召しこの教会にある」などと言われます。
そして、それを言われた人がその言葉を信じて安定して来るようになると、「この教会を離れるとサタンの攻撃に遭う」とか「人生の神の計画が失われる」とか言われるようになります。
その内容は教会での奉仕の事に止まらず、「人生そのものまで失うことになる」とまで言われたりします。
牧師達は「預言」を言った後に、「新約時代の預言は間違うこともあるので吟味してください」と付け加えます。
しかし、説教の中身は、「人生の計画・召しを受け取るにはへりくだって聞き従え」「誤って召しを受け取らないと後悔することになる」となります。
Sクリスチャンセンターの牧師神学生の信じる「真実」は以下のことです。
(これらの訓練の内容は、先の脅迫感も合わさって、相当シビアになります。)
▽この教会は神がリバイバルを行うために建てた。だから、この教会に集うものは皆「リバイバルの器」で献身者として神に召されている。
「その中で、私も召されており、来た人にもそれを教えて「建て上げ」よう。沢山集わせ、一人一人に賜物と服従の訓練をし、リバイバルの準備をしよう。」
▽神が任命し権威を与え立たせた長老や牧師に従え。長老牧師に従うことは神に従うことだ。
▽一人一人祈り神に聞き従え。しかし教会の流れの中で導くので、惑わされないように注意しろ。
受けた預言・示しが教会の流れと合っているか注意しろ。一人で動くとサタンの攻撃を受け霊的に危険だ。
日曜の説教の内容は、教会によってまちまちでしょうが、新しい方が集うときにも時としてこのような説教がされますし、これが彼らの信じる中身です。
彼らの真実とは、身を低くして神が立てた長老牧師の権威秩序に従い、「Sクリスチャンセンターの流れ」に同意し、それを「神の召し」として自己責任で犠牲を払って(キリストが十字架を負ったように命がけで)それを行うと言うものです。これに誠心誠意同意しているので問題が厄介です。
更に、個人の許容範囲をオーバーした人間的自己犠牲は連鎖的にそれを強いる構造になるので、事態は深刻さを増します。
現状では、長く集った方が牧師・長老の主張に長期間逆らった場合、秩序を乱したとして処分される可能性があります。
そればかりか、他の教会員に口を聞いてもらえなくなる可能性や、牧師によっては預言や説教でプレッシャーをかけてきます。
また、例え地方教会の牧師が非難を受け入れ態度を変えても、その教会の他の信徒の人間関係などで長老に知れ、「信仰」と「主任牧師であるキリストの権威」によって「Sクリスチャンセンターの流れ」に合わないことに介入・命令してきたりします。
特に長老クラスは自分は「神の使命」によってやっていると心から信じきっており、秩序のために公に牧師や信徒を非難(実際は中傷)します。
こうして、人間的な妥当な疑いや非難は、サタンの誘惑に乗せられたこと、あるいは精神的な病、と片付けられてしまいます。
実はSクリスチャンセンターでは、牧師・長老でさえ気をつけないと「リバイバルの召しから落ちる」と言われており、全体が恐怖の構造で出来ているのです。現状では実質、リバイバル現象として多くの人の前で奇跡や預言のわざをして人を救える人材は教団設立者のみ、という暗黙の構図です。
Sクリスチャンセンターでは、信徒個人の相談事には、聖書を用いて丁寧に対応し、その場で熱心な祈りがされることが普通です。その対応は温かみがあり愛を感じさせます。そこで、多くの人が信用を寄せるのです。
ところが、同じ牧師が「人生の召し」とか「サタンの攻撃から守られるためにこの教会に留まり続けろ」とか、時として説教で言い出します。日ごろの温かみによる信頼で信用してしまうと、その脅迫にも似たメッセージと温かみとの両方が神にあるものなのだと思うようになってしまいます。
このような「飴と鞭」が、催眠術のように効いて妥当な判断を鈍らせます。
最後に私の主張になりますが、
「鞭」が無くても、神の愛とそれを映す人の愛と信仰によって立つ教会が真のキリスト教会ではないでしょうか?キリストは、人間的な、律法の形式的熱心を戒め、愛が律法の要求を満たすこと、赦し合うことを語り、私たちを律法の責めから解放するために、人類の罪を負い十字架に架かったのではなかったでしょうか?
自分達が居なければ福音が失われるとかリバイバルが起きないとかの主張は、どこから出てきたのでしょう?
いつの時代の宗教改革や信仰刷新運動も、きっかけは信仰の真実をそれぞれの中で熱心に求めたもので、結果を打算的に考えたものではなかったはずです。(それを人間的野心で継続しようとした結果多数の悲劇が起きました。)
まず、Sクリスチャンセンターに関してですが、あまりに人間的に過ぎる「自分こそ神の召しに預かりたい」という発想と、個人の宗教的体験(預言癒しと主張されるもの)による思い入れが、今回の問題の根底にあると思います。
そして、これはSクリスチャンセンター以外でも起こり得ることだと思います。
現在のテロ戦争の混乱も、同じようにアメリカ大統領(劇的回心)と、イスラム原理主義(神の啓示)の心理的体験による思い入れから来る宗教への熱心が荷担している面も指摘されています。
(Sクリスチャンセンターはユダヤ人のパレスチナ完全占領が聖書の成就で神の「御心」だと考えています。正に聖書「文字通り」のことが起こると信じています。ユダヤ人のシオニズム=聖地回復運動が旧約聖書の記述に固執する宗教思想ですが、福音派の一部はこの考えを支持しています。これが原因でアメリカの福音派が支持するアメリカ共和党はイスラエル寄りだともされています。)
「愛と赦し」がキリスト教の中心です。しかし、それはキリスト教を知らない人も当然持つ普遍的な人類の価値観であり、どの民族ででも人を生かし平和をもたらしています。
私は、自分の信仰では神の天地創造とキリストの十字架刑が地上に愛をもたらしたと思いますが、それを主張することで戦争の火種なることに、私はキリストの意図を感じません。
使徒パウロは、十字架信仰で既に律法から解放されているのに、律法に拘る人を信仰の弱い人と言いました。彼は躓きにならないために、その人の前では律法のタブーを行わないと言いました。
神にもらった自由で一人でも躓かせてはならないと思うと書いています。
パウロは細心の注意を払って、自由を得させる十字架の救いを守ろうとしていました。
個人の体験立場は尊重されるべきですが、自らを絶対視し排他的になることは、「愛と赦し」に矛盾し、そもそもキリストを信じる信仰に矛盾することです。
Sクリスチャンセンターが現在主張する立場に固執し行動することは、愛という観点から妥当ではないと重ねて指摘しておきたいと思います。
合わせてその源流である保守的福音派、影響を与えたペンテコステ派、カリスマ派の排他的立場も問題であると申し上げたいと思います。
'03.11.20「Sクリスチャンセンター」九州責任長老への葛藤・1999年4月末の脱会経緯
少し前から読み返して来たのですが、私の文章は切羽詰ってますね…(・_・;)
少し私の事、そして今でも私の精神を苛む影響を与えた長老のことを書きますね。
私はハーザーの巻頭言に書かれている、精神病院に行った一人です。
私が出たきっかけは、長老K氏の下に異動したことでした。
このK氏の説教テープは全国のSクリスチャンセンターの教会に行き渡っており、その内容は彼の極個人的な牧師業への思い入れが多くでした。
私の任地では、内容が酷いと途中でテープを止めて、聴くのを止めていました。
あまりにも「神の導き」とされる内容を脅迫的に語っていたからです。
(ある長老はSクリスチャンセンターのテープは自分の教会では一切使わないとこっそり言ってました。笑)
K氏はSクリスチャンセンターの中で東京から遠くに飛ばされ、それを神の意志と信じたとしても、人間的には孤独で必死だった過去を乗り越えた自負がある、
テープは聞けば普通にそう受け取られる内容でした。
しかし、彼の痛みや体験談を聴衆が聞いてあげ受け入れてあげ、それを聴く人の人生に適用させるという、テープ説教のシステムは教会にかなりの悪影響になることでした。
誰もが恐れを感じ、「そこまでしなければ自分の神への思いと道は開かれないのか」と思ってしまい、自由がなくなり、その上、テープでは長老権威への服従を迫っていたからです。
私は自分がこのテープを止めなければ、この内容を認めたことになりますから、止めました。
しかし、それでも彼が教団のとる現体制で長老である限り、指示・介入・秩序にはポーズだけでも従わねばらず、現場ではかなり葛藤しました。
事件は現場で起きているわけですから。笑…
Sクリスチャンセンターは元々、各々が神を信じ人生で様々経験しながら自立することを何度も強調していました。しかし、悲しいことですが、事実として必死で説教した一部の牧師の体験談が「型」になっていたことを今一度指摘しておきます。
K氏は、ご自分が飛ばされて数年後さらに異動を東京のA牧師から打診されたようですが、現任地への思い入れがあり断ったと言っていました。
彼はこの任地での決意を「神からの召し」と言っていました。
彼の「召し」は自由ですし、それまでの苦労も分かりますが、彼の「型」を神学校や管轄地区や全国聖会で権威を帯びて語るのは、明らかに弊害でした。
私は彼のもたらした痛みの連鎖が今回の問題を大きくしたと思います。
しかし、彼もA牧師に飛ばされた一人であるということには、複雑な思いがします。
A牧師もその辺があって、彼には甘かったのかとも思います。
私は、A牧師が彼をかばう姿勢を見て更に孤独感を増したのですが…
さて、私は、K氏が私の任地で、直接説教をする事を最も恐れていましたので、彼が来る度に私は本当に「必死」に祈り、厳しい内容にならないように願っていました。(引きつり笑)
もうひとつ辛く葛藤したことは、月一回のK氏の教会への詣で義務の中で、彼の教育的指導を受けて自分の家に帰ってくると、自分が権威的になり厳しい思索を持ってしまっていることに気付く事でした。
私はその姿勢で集会に臨まないように帰った夜から必死で一人でリハビリしなければなりませんでした。
私は一年間そのようにしていました。
しかし、ついに耐えられなくなり、機会を待って出る決心をしました。
私は出る前の2ヶ月間、K氏との音信を絶っていました。
その間、私は穏やかに集会を継続していました。神が何かしてくれることを期待しながら。
そしてある日K氏が私に連絡を取ろうと、家庭集会中の教会員の家に電話をしてきたので、その時を機と捉え、「Sクリスチャンセンターが当初からは変質したので出ます」と意思を伝えました。
彼は穏やかに「(神のものではなく)あなたの教会になったんだね」と言いました。
私は、この土地で単立で教会の集まりをするつもりでした。
出るにあたって私は教会員の方々に、「自分で祈ってどちらに行くか自由に決めてください」と言いました。
しかし、長老K氏は教会員に「あの牧師と一緒に行くと必ず傷つく」との内容で一軒一軒にFAXと電話で直接猛烈な説得にかかり、結果多くの方は私とは別に立てられたSクリスチャンセンターの継続教会に行きました。
その後、そのSクリスチャンセンターの継続教会内部の問題で、結局そちらに行った方々の半数は教会を離れてしまいました。
私が教団を「出た原因」のことを東京の預言では精神病と、A牧師がそう公言しましたが、真相はK氏による説得工作と「精神病だという間違い預言」が全国に流布され、教会の交わりが崩壊したことによるショックが、その後の私の日常でフラッシュバックされ恐怖となり、自律神経のバランスを崩し、糧を得るバイトに手が付かなくなりました。それで通院となった訳です。
私が教団を出るとK氏に伝えたのが確か水曜日で、祝日の木曜日に私の教会のレクレーションで教会の方々に発表し、金土でK氏の説得行動がなされ、この間にもう私の精神病説が流れていたようです。
これらの長老の行動と教会の姿が、私には大きな傷になり、その後の人生や奉仕に大きな影響が出ました。
たとえ、私が教団を出ることを脅威に感じても、A,K氏はもう少しましな対応をするべきだったでしょう。
私が2ヶ月音信を絶っていたとはいえ、何の詳しい情報確認も無しに、預言を嵩に、混乱の原因を一方的に私に被せ、全国に精神病だと発表したことは、私の人格を不当に傷つけ、教会全体を混乱させました。
彼らが人を守ろうとした行為は、破壊する行為だったと言えます。
私はA,K氏に謝罪は求めません。
これらのことを通して、彼らも弱い人間だと思うからです。
今、私はやっとのことでアルバイトをしながら生計を立て、日曜日に集会だけは、教団を出てからずっと継続して持っています。
暫く、Sクリスチャンセンターの継続教会は、示しということで市内各所を移りながらで日曜礼拝をしていたようですが、今は元のSクリスチャンセンター時代から継続して私たちが時間借りしている同じビルの会議室を使っています。
毎週彼らの歌声を聞いたり鉢合わせしたりする状態ですが、私たちはあまり気にもせず平静に集会を持っています。
※参照: Sクリスチャンセンター九州地区の問題
'03/11/27(木) 12:17 「Sクリスチャンセンター」問題は保守的教会にも見受けられる問題
こんにちは
私は、繰り返しになりますが、Sクリスチャンセンターの問題は、保守的キリスト教会の問題の一端だと思っています。
教会は、絶えず生きてる人間の「命」と「人生の今」の問題を取り扱う所であるのに、
相談に行っても、通り一遍の聖書の言葉を言われたり、酷いところでは「謙遜が足りない」とか「献金していないから」などと言われたり…。カウンセリングの基礎も出来ていない場合がありますよね。(実際、牧師達が先ずカウンセリングを受ける必要があるように思います。人生の痛みを認めないところなど、弱さの裏返しでは?と思わされます。)
また、クリスチャンの側も人によって教会に期待しすぎるところ、依存しすぎるところがあります。(世の中の全ての問題が教会によって解決するわけではないと認識する必要があると思います。教会は基本的に意図的組織的な運動を起こす場ではなく、個人の歩みを助けたり強めたりする場でしょう。個人の内面的霊的な刷新が起こった結果ムーブメントとしてリバイバルが起こるのでしょう。)
それでSクリスチャンセンターのようなところが受け皿だったりする場合もあります。
痛みが激しい時に、丁寧な受容を受け、癒し・奇跡・召し・献身で必ず改善されると言われるわけです。痛んでいる側は藁にもすがる思いですから飛びつきますよね…
そして、献身を考えている人も、できるだけ対応したいわけですから、「神の業」が起こって人が癒され救われると言われれば飛びつく人もいます。
私は、正しいあり方は、個人個人が問題の中で安易な解決を求めずに真摯に現実を受け止めて、個人的に神にある解決は何かを冷静に考えること、教会の交わりがそれを助けるために機能することだと思います。
(もちろんすでにそういった環境が当たり前だと言う方も居ると思いますが、個人が訴える痛みをけんもほろろに「わがまま」と片付けられる教会や、逆にSクリスチャンセンターのように組織への服従で痛みの解決があると謳う教会もあるのです。)
'03/12/10(水) 10:34「Sクリスチャンセンター」東京責任長老の責任回避、神と個人に責任を帰す
教会にいろいろな問題が起き、教会員が動揺し、「信仰と言う名の虐待」的行為が悔い改められていない現状で、
「躍り上がって喜びなさい」で、虹が見えて「神のしるし」だと認識する…
そして、このことを言って教会内をまとめる。
普通に感覚でどう思いますか?
目の前にある問題を解決せず、自分一人で「神の平安」の中に逃げ込むのでしょうか?
教会内部の痛みを痛みとすることは無いのでしょうか?
人の痛みに思いを持ち、関係・交流をもって解決を図ることは無いのでしょうか?
「私は神に言われたことだけやってるからそれでいい」と思っているのでしょうか?
「神が責任を取る」のでしょうか?
以前トップは「神にやれといわれたことでも自分に責任が問われる」と言っていましたよね?
彼らの「聞き従い」は「自分を守る」ことしかないのでしょうか?
「各々が各々の責任で聞き従う」ということは、牧師は責任を取らないという構造なのです。
つまり、従った人、また出た人の責任です。
関係性の否定は徹底しています。
「人の自然な愛や優しさを表にあらわす」ことは「個人の神との関係・聞き従いを阻害する行為」と認識されていますから、一人一人痛みが増して、冷たさが連鎖します。無理の無いことです。
「神学校」がトップの意思通り機能するところでは献身者間では「愛が冷たくなって」いきますよね。
彼らとの運命共同体という選択でいいのか…その疑問は健全なものです。
人間関係に傷が深く、神にのみ救いを求め、「人には頼るまい」と思ってこのような教会にいる人が一番懸念される状況でしょう。(これは主の十に限ったことではありません。)
「御声・預言・見分け」「牧師の解釈による聖書の教え」にあくまで留まり、人間関係の中での社会的な経験と学びを避ける…
社会復帰を健全に導く力量が無いのに、「神に不可能は無い」と無責任に引き受ける一部キリスト教会の現状も、主の十に似たり寄ったりでしょう。
健全な知恵を避け、自らの信仰に固執する状況を「カルト」と呼ぶことに差し支えがあるでしょうか?
2004/05/03(月) 13:25 教会での精神的虐待・中傷による障害が脱会後に顕著になること
今朝の朝刊にこのような記事がありました。
「探る追う PTSD」
生死に関わるような恐ろしい体験の後に
1.記憶が焼きつき、突然恐怖と共に蘇る(再体験)
2.音や光など普通の刺激にも過敏に反応し動悸や震えなど自律神経症状が起きる(過覚醒)
3.現実感を失い感情が乏しくなり、原因に似た場面を避けようとする(マヒ・回避)----。
こうした症状が一ヶ月以上経っても続くとPTSD、一ヶ月未満で特に自分が自分で無くなってような感じ(解離)などの症状が激しいものは、急性ストレス傷害(ATD)と診断される。
ATD
(急性ストレス障害)とは@生死に関わるような重大な恐怖
A自分が自分でなくなったかのような感覚
B恐怖に直面した当時の夢を見たり、当時の場面が頭から離れなかったりする。
C恐怖やストレスを受けた時と関連する思考や感情、反応のマヒ
D興奮・不眠などの過覚醒
@〜Dの要件を満たし、体験直後から1ヶ月以内に、2日以上激しい症状が続いた場合
PTSD(心的外傷後ストレス障害)とは
ATDの@の要件を満たし、B〜Dの症状が恐怖やストレスから1ヶ月以上経っても継続するか、1ヶ月以上経ってから発症し、社会的に障害や苦痛がある場合
(朝日新聞'04.05.03朝刊 科学・医療面)
私の場合は、脱会一年後位からこれらの症状が出始め、精神科に通うようになりました。具体的には、記憶の蘇りとして、特定された場面ではないK氏の権威的な発言の様子、教団の権威主義が私の牧師の働きに勝ったという現実、がありました。また、全国の教会の方々が教団の流した私についての中傷を信じた事で、後の人間関係まで継続的な不信感が残りました。それで、牧師の仕事が無に帰した感覚からアルバイトの仕事中も不安になり、非常な恐怖感と時には発汗があって、自分の精神がおかしくなるなるのではないかという思いにとらわれ、バイト仕事への拒否反応が出て手につかなくなりました。Sクリスチャンセンター関係の方に連絡を取る事が非常な恐怖となり、避けました。
私が行った病院では自律神経失調と診断されました。
PTSDなどの診断は、精神科でもその知識が無い病院では難しいようです。
しかし、PTSDと思われる症状に苦しんでいる方は多いのではないでしょうか。
永遠の命と永遠の刑罰を教義に持つキリスト教会では、人の精神状態に対して、この世の生死以上に大きな影響を与える可能性があることを、確認すべきでしょう。
そして、教職者も信徒も、教団の教義や方針をキリスト教の愛の教義に照らして絶えず妥当かどうか判断する必要があります。
また、牧師と教会組織も社会の一部であることを確認し、その教会のあり方や責任を社会的客観的に公平に評価することも大事なことだと思われます。
(筆者は、2004年頃には完治しております。自律神経失調やフラッシュバックや恐怖感など今はありません。)
管理者:y.niho
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