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信仰告白

仁保裕介
2006.6.27
2006.10.10教会の項に加筆
2014.4.1加筆


  <神・救い>


 神は、父・子・聖霊のそれぞれの人格からなる三位一体であり、その本質と完全性においては全く同一なる方です。「我は有りて在る者なり」「わたしは主である。わたしのほかに神はない、ひとりもない」「我はアルパなり、オメガなり、始なり、終なり」と宣する自存・唯一・永遠の方です。
 神は愛です。しかし神の自存性とは、人による認識や万物の存在に依存しません。

 神の創造と全能と支配を信じます。
 神は全知・全能の方です。その力と支配は全てに及び、全てが保たれています。唯一の神であり、どこにも居られます。「天にも地にも、わたしは満ちているではないか。」
 人は一人ひとりが、神によって神の霊的・人格的性質を映す、肉体をもった存在として造られ、この地上に生まれさせられ、愛によって、神と人、人と人との間で交流する喜びを与えられています。そのような神は人に崇められるべきお方であり、人は、あらゆる場でその神を想い崇め礼拝することで最上の喜びを見出します。礼拝は、決して教会会堂のみではなく、日常的に個人の内面・外面で行われるもので、その時々に人は聖霊に満たされます。

 御子イエス・キリストの完全な神性と完全な人性を信じます。
 神は聖です。イエス・キリストは、聖霊によって人である処女マリヤに胎に宿り、生まれながらに罪の無い方です。人類の罪を贖うために十字架について犠牲となり、よみに下り、三日目に復活し、天に昇り、父の右に座し栄光を受けられました。
 キリストの十字架刑と死による罪の贖いと復活は、人に新生と聖化を与え、すべての終わりに新しい霊の体による復活を与える、神から人類に与えられた唯一で完全な救いです。人にとっては時間に拘束される制約上、これを信じ受け入れる時が救いの始点です。
 この救いは、神から人に与えられた一方的な恵みです。すべての人は罪による制約である全的堕落の下にあり、救いが自分に必要であることを聖霊によって悟り、信じます。
 聖霊は、キリストの贖いと、贖いが示す神の愛と人のあり方を教え、それ受け入れる人に絶えず内住します。キリストはその人と共に居ます。
 聖霊は、地上でこのような新生による永遠の命を保証し、同時にそれ以降の聖化を促し、信仰者の日常に生涯にわたり助けを与えます。

 贖いによって、神は、求め信じるすべての人との霊的人格的交わりを回復してくださいました。人は、神の性質を映す被造物であるので、罪による堕落にも関わらず神の存在を直感し、求めます。そして、聖霊によって神を見つけることで、神と人との愛の関係が回復され、信仰が与えられます。人は、罪を認め、悔い改め、神に救いと助けを求める時に、神との関係の回復に至る真理であるキリストの犠牲の意味を悟ります。

 神は、人がこれらを悟り信じた信仰によって、その人を義とされます。

 洗礼は、個人が「私は神を信じることを、以後ずっと継続する」という心の証として、新たな人生を歩みだす出発点です。洗礼を信仰を持って受け取るとき、神から信仰を力づける霊的祝福があります。そして、それ以後の個人の信仰の継続やあり方は重要です。人は神の国と義のあり方を生涯探求し、発見し、信じ鍛錬されることで聖化され、被造物のすべての終わりに新しい霊の体によみがえり、霊的に永続する神の国での命を得ることによって、救いは完成します。


  <教会>


 教会とは、これら神を求め信じる人々の間で、これらの信仰についての霊的励ましや守りがある交わりのことで、信仰者が霊的に属するものです。
 教会のかしらであるキリストは、神と人との間の唯一の仲保者です。キリストは、信仰者と絶えず交わり、その人生に伴われます。
 それに対して、教会の会堂や組織といった目に見えるものは、必ずしも霊的とはいえず、人間的限界を抱え、間違いを含んでいます。人や地上的制度や誤った教え・偽の教えが信仰に介入しようとする危険があり、健全な愛の交わりや救いが阻害されないように聖書は警告しています。教会の内外で警戒しなければ霊性を守ることはできません。
 信仰者は、所属する教会活動の内外を問わず、神を愛し交わり、広く人を愛し交流し、日常において信仰の真理を探求し、祈り、霊的また社会的経験をつみ、聖霊に助けられ様々な発見や励ましや訓練を受け、成長します。
 特に、人にとって当然必要な社会参加によって、客観性と共に信仰の普遍的価値を学び、正しいものを見分ける目が養われます。また、そのように神に伴われ社会に生きる信仰者によって救いが世に証しされます。
 良いことも悪いことも様々な体験や発見をした信仰者同士が交わり、愛し合い、助け合い、仕え合い、告白し証しし赦し合うことで、教えられ、悔い改め、より深く救いを知り、守られて成長します。
 このキリストを頭とした信仰者の交わりの総体として霊的に存在する普遍的教会に、神は人類への救いのメッセージを保持し証しする権威を与えられました。
 これらは聖霊の働きによって維持され、養われます。
 つまり、霊的教会は、神に従い愛し仕える姿勢の各信仰者の能力・経験・知恵・知識、神が与えた霊的賜物、教会に働く聖霊によって、愛の交わりのうちに全体が調和し、救いを証しし、信仰者が個別的にも教会全体的にも成長します。

 ただし、霊的な現象や神の権威と言われるものに対して健全な人間性を越えて期待するのは、教会の調和と成長をとどめ、人の生活や精神を不健全にします。神はどのような教会組織にも、教職者などの個人にも、決して無誤無謬の権威など与えておらず、信仰者のあらゆる生活を統制し支配する権威を与えていません。従って、誤った形で霊的と呼ばれるそれらの現象や権威を警戒し、人間的生活を送る上での現実味や社会性、客観性を決して否定せず、聖霊の伴う健全な教えと祈りと聖書理解によって霊的に成長することが求められます。


  <聖書>


 初期教会は、行いによらず神の救いの福音を信じる信仰のみによって神が一方的恵みとして人を義としてくださるとの「信仰義認」を保持するために、新約聖書を編纂しました。新約聖書の記事の多くは、キリストと交流し目撃した人たち、否定し難い明確な聖霊の体験をした人たちが、その体験の中で啓示されたことを、聖霊によって悟り記録したものです。そこには、神学の基礎となるものが多く含まれています。
 旧約聖書は、人がその罪のために神との親しい交わりを断たれる姿と、神がそれにも関わらずあわれみを絶えず人に与えることを描き、それを信じるイエス・キリスト以前の信仰者の姿を伝えました。また、多くの預言が書かれており、イエス・キリストの十字架刑と復活による救い、神の国を約束していました。
 聖書旧約新約66巻は、聖霊が働いた信仰者の告白と働きによって成立し、保持されてきました。
 また、聖書には、執筆者の能力や環境の限界と当時の社会の限界に従った記述があります。そのような人の状況にさえ、神があわれみをもって働かれ、人を用いられ、神ご自身を啓示されていることを信じます。そのような聖書の記述、執筆事情の中にも、神の愛とあわれみ、信仰のあるべき姿、神と人の交わりが示されており、私たちは教えられます。
 この聖書は、神の啓示が書かれた唯一の書です。  私たちは、聖霊によってこの聖書にある神の啓示を悟り、信じ、救いを受け、さらに教育され、救いの完成に至ります。



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