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現代教会の陥りやすい問題点と危険
〜教会に集おうされる方の自立を願って〜
2002年夏
y.niho
プロフィール・立場など
本来の教会の姿
各地方でクリスチャンが集う「教会」の交わりの姿は、元来今のように組織立ったものではありませんでした。使徒の働きやローマからユダ書簡を読めば分かるとおり、クリスチャンとなった人が互いの日常を励ます寄り合いでした。長老・牧師は町内会長や世話係といった存在で、近所の世話好きなおじいちゃんのようなイメージではなかったでしょうか。話題の中心は、聖書の勉強のことではなく、日常の苦労と解決、クリスチャンならではの体験談であった筈です。人に教えられた事では生きられず、毎日の場面場面で解決していくのが人の現実ですから、神が日常に居るという視点で悩みや解決を出し合っていたことでしょう。
新約聖書後半に書簡集がありますが、それが書かれた理由は、厳しい戒律を伝えるためではなく、各地の教会の問題解決や注意、働き人の励ましなど具体的な目的のためでした。伝道のために各地を巡って各地の教会の基盤を作るなどした「使徒」たちが書きました。現代の私たちは、各手紙の全体を一通の私信として、書かれた当時の事情を思いながら、使徒たちの信仰と愛の意図を読み取ることが大切です。そこに聖霊が働かれると思います。一行一節を、事細かに読者個人にあてはめて、厳しく律したり、罪を裁いたりする目的のものでは、決してありません。
さて現代では、情報化の中で、私たち自身も無意識に教会をただの情報源のように捉えているかもしれません。あるいは、教会堂やそこに集う人々との交わりや奉仕が、喜びや希望のように思うかもしれません。しかし、ひとり一人がクリスチャンとして自ら真剣な生き方をし、神様が導く中で自らが学び、他の人たちからも学び合えるものが本当の真理ではないでしょうか。教会での聖書の学びはもちろん必要ですが、それと同時に、神様が日常の現実に生き、働き、導くことを思いながら、家族、会社、社会に生き、その上で教会に集うことが、大切だと思います。
このページでは、歴史の中で形作られてきた現代の「教会」が、本来の信仰とは違う律法的な「型」をつくり、人や社会の日常から離れてしまった場所となってしまうことがあるのを反省し、クリスチャンが個人の日常で信仰の発見していけることを確認していきたいと思います。
本来のクリスチャンライフと、教会の組織性・宗教性が矛盾することは、実はとても頻繁に身近に起こり得ることです。牧師や長老・役員などの発言が、ごく簡単に権威と力を持って教会を締め付けることが、よくあるのです。
信仰は、魂に自由や平安を与える物なのに、いつの間にか、教会教育によって同じ言葉や思考を強いられたり、教会組織の歯車にされたりして、組織の道具のようになってしまうこともあります。個人でしっかり自分を持つ人はそれを見分けることができているでしょうが、教会に頼ってきた人には非常な混乱を来す問題です。
聖書が言う「教会」の意味は、2つあります。一つは各地方にある交わりです。もう一つは、全世界のクリスチャンを一つのものと見る「普遍的教会」です。「普遍的教会」は霊的な意味で頭(かしら)がキリストで、クリスチャンはその体だと言われています。この二つの意味の教会は一致し矛盾することがないと理想を思いがちですが、初代教会から現代まで問題は起こりっぱなしでした。やはり地上に居る間は、「キリストにある者」であっても完全ではありません。信徒、牧師とも例外なく救われた罪人(つみびと)ですから。
それでは何が私たちを守るのでしょう。それは、互いに罪人である自覚と、キリストの救いを受けた神への愛と隣人への愛、聖霊と聖書によって照らした判断とそれによる成長です。
よく「教会に留まることで、クリスチャンは守られる」とういうことを耳にします。牧師の説教も含めて、純粋な意味でクリスチャンの「霊的交わり」を教会とするならそのとおりです。しかし、それを拡大解釈して「○○教会・××牧師の教え・△△派の神学に留まるなら守られる」というのは、必ずしも正しいとは限りません。
私たちは、毎週自分や教会が、権威的になっていないか、聖書の一節が文脈や背景を無視して一人歩きしていないか、気をつけて見ていないといけないと思います。
2004.7.12修正加筆
キリスト教という「宗教」への大切なスタンス
・信仰と救いの名の下に強いられる、人間的な決まり事を見分けたい。
・「信仰の大風呂敷」には気を付けましょう。神(聖書)が言っていると言って、現実離れした『思い込み』を解決策や慰めに使います。人には解決出来ない絶望を、さも見てきたかのように…。教会が言う『決まり事』では人は救われません。
・愛は神が人の内にデザインして一人ひとりの心の中に植え付けたものです。愛は神の本質で、人の中の愛はその神の愛を映したものです。そして日常の中に神は存在します。
・苦しみながらも誠実に生きる中で、赦し、人生の意味、感動を一人ひとりが発見する。それが人生で、誰にも例外はありません。
2002.7.20 教会教育にズレが生じる時
「信じるだけで救われる」と聞いたのに、キリストを信じた瞬間、規則ずくめの日々が始まる教会があります。
「毎日祈り聖書を読め。毎週教会に来い。教会、家、社会でクリスチャンらしく模範的に振る舞え。伝道して一人でも多くクリスチャンにしよう。」等々言ってきます。
2000年前、教会の当初はクリスチャン同士のコミュニティ、サークルといったもので実にアットホームでした。本来、初代教会の使徒、長老たちも、現代の教職者も、教会メンバーの多種多様な問題を助けるために毎日悩み奮闘しているはずで、そのような牧会を横に置いて形式的な組織作りなどする暇があるでしょうか。
人は生来霊的な存在で、魂の結びつきを大切にするものです。それは愛という形で一般的に普通に見られるものであって、教会やクリスチャンの専売特許ではありません。そして神とキリストに出会えば、人は同じように愛と誠実を尽くす度量を持っています。それに対して、キリスト教の伝道と教育は、唯一、人を罪から救うもの、という使命感と自負を持ってアプローチすることがあります。「聖書に書いてある」と主張して紋切り型の理解で人に罪人だと宣告し、教会のプログラムに当てはめようとすることがあります。
「救い」とは個人的なもので、他人が介入する事ではありません。人の悩みは千差万別で、決して決められた概念では解決されません。人はその人生の中で自ら切り開く体験で成長し、愛を知り、神や聖書を理解するのです。そこに神が直接働いているというのは、キリストの言ったことです。(ヨハネ福音書3:1〜16)
聖書ははじめから系統立てて書かれた教えの書ではなく、その場その時代で悩んだ個人が、その体験の中で神と出会って書いたもの、と言えます。哲学者が書いたのではなく、生活者が実感をもって書いたものです。教会が聖書を、「格」のために難解で遠い存在にしている事が、現代でもよく見受けられます。キリスト教教理は聖書から抽出された普遍的真理を明文化したもので、救いと神がそれによってはっきり分かることはとても有用です。しかし、聖書の細かな一節一節を、そのまま現代の私たちに当てはめるのは当然無理があります。書かれた歴史の背景と執筆事情を考えて理解し、極端な適用を避けるよう気をつけるべきです。その部分の教会教育が一般的に不十分なことを指摘したいと思います。
2004.7.29加筆修正