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愛と選択

 

 「愛を選ぶ」という解決は、ただの理想に過ぎないのか?

 現実には、人は未熟さゆえの不安から愛を信じ切れず、慣習や人間関係や社会的立場に身を寄せて、人生を乗り切ろうとする。

 しかし人は選択した道の結果を刈り取る。人生を自分以外のもののせいにしたくとも、人生は自分のものだ。

 人生を乗り切るために、正しい選択は、愛を信じ選ぶことだ。人は愛に動機づけられて生きるようにできている。そのためには、信じる価値のある愛を探さねばならない。

 いくら愛があるといっても、愛以外のものを優先させる人の愛は不完全で、信じるに値しない。ましてや人生を懸けることはできない。こちらが愛する相手の愛もやはり、正しく選択されていなければ、愛は裏切られる。

 本当に人生を委ねられる愛のある所を見つけなければならない。それがどの人の心にあるのか、敏感に感じ取りたい。

 少なくとも、キリスト・創造主の神が愛であることに、慰めがある。そしてそれは信頼できるものだ。キリストは人格神であり、私たちの痛みを理解する神だ。彼は私たちを優しく完全に受け入れる。

 しかし、地上に生きる人は、愛が全てではない世の中で、心の渇きを覚えながら、目に見える現実にも愛を求めている。

 先ずは神の愛を受け入れよう。

 

 

02.7.20 伝道

 人は生活の中で神を見いだします。

 流されたり、痛みを避けていなければ、人は人生で必ず試練に遭い、その結果精神的な深みを手にします。

 包容力、思いやり、忍耐強さ等、人に悟りを与えるための最大の効果は試練がもたらすものです。

 クリスチャンはその中で神の存在を知ります。そして、神の知性、知恵、世の中の秩序(=神の摂理)が理解できるようになります。

 

 神を知り、人を知るということは結局世の中での現実の生活の中でしかあり得ないことです。

 そして、深くその理解が進むと聖書が理解出来ようになります。それと同時に、人の愛や情の大きさが理解できるようになります。

 

 そのような神と人への理解無しに伝道などしても、疎ましがられるだけだと私は経験上感じます。

 私たちはさらに理解を求めなければならないと思います。世の人は、私たち以上の試練に遭い、人生を深く悟っているかもしれないのです。

 

 

02.7.23 信仰の概念をどこまで現実視出来るか

 世の中には、クリスチャンと、クリスチャンではない人が居ます。それにまた、それぞれ2通りの価値観があります。

・「目に見える現実が物事の中心だ」と思う。

・「愛や信じる事が中心だ」と思う。

 どちらか分けられないなどと言うことはなく、必ずどちらかを判断基準として選んでいるはずです。とっさの時に必ず表れるからです。

 愛や信頼に行動の中心軸が定まらず、見える現実に心を翻弄・妥協させられている場合、人に成長はありません。

 神や人に誠実なクリスチャンならば、いつかは愛に立ち返らされます。自分の目がどこに向いていたか思い知らされる時が来ます。自分の人生を守ろうとする者はそれを失い、神と愛に生きようとする者はそれを得るのです。その神と愛が現実だと信じて生きようとする命が永遠の命だと私は思います。

 見える現実を中心にして、愛と信頼を二の次にしているクリスチャンはクリスチャンと呼べるのか…。呼べないでしょう。口では神を敬うがその実がない人は天国に入れないと、聖書にはっきり書いてありますから。(イザヤ58:614、マタイ25:3146参照)

 

 

02.7.24 クリスチャン的立場

 私はクリスチャンだから、神を信じているから…と「立場」を意識する事に意味は無い。意識の実質がクリスチャン的な体面とプライド、聖書の要求を満たすことなら、それは自分に向き合わない世間や対人関係のためで、その人の祈りは聞かれない。「意識」を「立場」にするのが本当。外面は関係ない。心で信じているものが重要。

 「クリスチャン的立場」が自分の心のものとなっていなかったら、その状態でありのまま居るべき。自分の心に忠実でありたい。

 しかし、心の思いを殊更外に向かって言うべきでない。子供でない限り他人の関心は自分の成長や救いに全く関係ない。自立した大人である自分が自分の世話をする。その時に祈る祈りには実があり神に届く。神が要求するのは、世間での正しさではなく、罪の悩みや痛み、本音の思いだ。神は私たちに、世間を手に入れるより「真の命」を得させようとしている。

 私たちはこの一生で救いを確立する。救いの実質は個人の内面が神と向き合う所にある。言葉や行動や態度で自分を飾っても無意味。自分の内面をさらして正直であり、神と歩む事しか人生に必要な事は無い。正直さは神と人に愛され、その中で神は私に人生を渡る健脚を与える。

 

 

02.8.2 永遠の命

 永遠の命の保証は、聖霊にある。私たちが神・キリスト・聖霊に心を捧げ共に住んで貰おうとする時、聖霊は必ず居る。

 その心に存在し共鳴する事象は「愛」だ。泉のように流れ出るようになると言われるのは「愛」に関するものに他ならない。「愛」を禁止する律法は無く、私たちは聖霊によって何をすべきか悟る。

 しかし、最低ラインはやはり律法によって守られる。決まり切った事、欲の事など制御出来ない霊の幼児の時には、律法に学ばねばならない。善と悪は同居するから…。

 現実の適用では、自分の霊的幼児性から抜け出すあらゆる努力が必要となる。それには痛みも伴わなければ、教育にならずに後戻りしてしまう。

 「罪」とは「的外れ」という原語の意味がある。昔、神を離れた時から人類は勝手な事ばかりして的を外してきた。最初の罪も「神のようになりたい」だった。造られた人が神無しに大きく立派な姿に成長しようとするのは、的外れの連続で、それは欲に支配されたあわれな姿だった。親の居ない子供のようだった。それが旧約聖書の失敗と悲劇の数々となっている。神は人に「欲を捨てろ」とは言わずに、「欲より神を選べ」と言う。人類は先ず欲を神より優先させ、そのまま欲を愛より優先させるようになった。これがあらゆる悲劇の元となって、今の世界に降りかかっている。これが霊的幼児性の実態と結果だ。

 世界のあらゆる思想・哲学・宗教が人類を悲惨から救おうとするが、結局「欲」を制御出来ずに厳しい戒律で縛るか、法律で規制をかけている。聖書でも律法は罪を自覚させるしか効力が無く、欲望から人を救えないと言っている。

 欲より愛を選ぶのが人の英知だ。母親は子供に対して犠牲的に愛を与える事を本能的に実践する。しかし世では欲に従属した悪がはびこり、必ずしも愛に優先権を与えていない。さらに悪い事にキリスト教界でさえ、見かけを優先して人に見える聖さを追い、世の哲学・宗教と変わらない現状をはっきりと持つ。

 人を成長させ、愛を選ばせ、更に神の存在を知らせることが、急務だ。これらをまとめて「救い(永遠の命への道)」と呼ぶ。

 

 

02.8.3 主従関係

 日本独特の人間関係における習慣的意識に、儒教から来る上下関係、主従関係がある。誰がより尊敬される言動をしたか、誰が功労を立てたか、誰が美徳を行ったかを評価する。それで、ランクが付けられ、優劣を比較され、立場の安定と危うさが決まる。特に支配者がいる場合は、その人物の下す評価が最大の関心事とされる。その支配者の考え一つで正誤が変わる。これらは人の存在に関する価値を相対評価と支配関係で決めている。

 人を取り囲む事象の全てについて、自分で下す評価よりも他人の評価が優先する状況では、なにが正義なのか極めて流動的だ。アジアには欧米に比べて絶対的正義が無いと言われる所以だ。またアジアに限らずカリスマ的指導者を冠する宗教や思想集団も同じ状況だろう。

 個人の絶対的価値と価値観の喪失は人の存在意義そのものを脅かす。個人の尊厳をないがしろした集団の正義は不当だ。

 人の存在意義を見いだすやり方はいくつも有るだろうが、最も根本的なのは「愛」だ。自分が愛されていると知ることは、人が人生・日常生活・労働の場で、評価のための脅迫的な動機からではない、自分自身の動機で行いをする源泉となる。「クリスチャン」とはただ神に愛されていることを受け入れてそれを自覚し、その他の何にも人の存在理由を仰がない人の事を指すはずだ。それがいつの間にか教会組織と人間関係、社会的地位で自分や人の価値を計るようになった。神が人を造り、生まれさせ、愛しているという根本的絶対価値は重要だ。それをないがしろにし、人の評判の方を気にするようになった。そこにはどんな人にとっても救いはない。

 

 

02.8.6 日本人と救いについて

 キリスト教の「救い」の定義は地上で唯一神に出会い、天に行くまでその神と共に居ることと、天でその神と永遠に共に居ること(=永遠の命)を指す。日本人はこの天での永遠に実感が湧かないらしい。欧米では、神は唯一絶対で人の意識に関わらず存在する、という概念がある。日本では生活の様々な場面に散在する八百万の神という概念で、身の回りの損得に直結する存在だった。だから今は近代経済がそれに替わっている。

 人の霊魂の永遠性を日本では輪廻転生や八百万神への変化で理解する。要するに日本やアジアの国々では閉鎖的な価値観を持っていて、身内意識が強く、自己存在の理由や人生の成功はすべて、自分と関わりのある人やものに由来している。親兄弟があって自分が居る、会社があって自分が居るという具合に。すべてが内向きで外界からの評価を受け入れない。身の安全に関わると思っているのだ。

 日本人の正悪の判断は普遍的な絶対規準によるのでなく、コミュニティや対人関係に左右される。罪とは、行為自体が悪いというのではなく、人やコミュニティに対して悪いということで判断される。どうして悪いのかというはない。

 問題は、絶対的価値観から鉈を振るう勇気のある人が居ないこと。自分自身そのものが悪いという罪の意識が生まれない環境だ。

 その逆も真なりで、確立したアイデンティティが生まれない。絶対的価値観から褒める人も居ないから。

 帰属意識が、自己存在や罪責感をコントロールし続けるなら、日本人は唯一神に出会えない。それが本当の神なのに。

 

 

02.8.10 差別化

 私はごく普通の人間で、ごく普通に生きようとしている。特に自分がクリスチャンと意識することなく、一般人として。自分と神との関係はとても意識するが、それは自分にごく自然なものだから、自分の事で他人には関係ないから、神を言い訳に使うのは禁じ手だと思っている。

 そこに自信がないと殊更「自分はクリスチャンです。」と周りに言ってまわるんだろうなぁ。自分は違うんです、と。「自分は救われて神のものとなりました。もうこの世のものではありません。」と。確かに聖書にそう書いてあるけど、それは自分の心の「信仰、希望、光」なので、「私はあなた方とは違います」が本旨ではないでしょう。その「信仰、希望、光」で周りの人を愛しなさい、というのがクリスチャンのあり方でしょう。一般との差別化の強調には罠があります。逆に「愛」というポイントはマタイ25章などで天国に入れるかどうかの基準になっていますから、「差別化」で愛の基準を外れかねない。

 ネットの検索エンジンで「クリスチャン」と検索して一般の人の文を読むと、ほとんど特殊な人たちという印象を持たれてる。クリスチャンの側でもそれに反応して「信仰の内容は決して悪いものではありません。良いものです。」と言ったりしている。結局違う立場であることを強調することになってる。ハァ…。同じ人間だろうにこの溝の深さよ…。

 クリスチャンよ、もっと実生活の真ん中に出よう!「私はクリスチャンです。」という逃避と、自己弁護の鎧を捨てて…。神様に変えられ守られている裸の自分で勝負しよう。

 

 

02.9.24 聖霊の伴い

 クリスチャンの表す態度・言葉は、何に裏打ちされるか?

 それは自分の中に聖霊による平安(この上もない確信と安心)があること。

 新約時代は「聖霊の時代」だ。旧約時代には無かった、すべての人への聖霊の働きが約束されている。この聖霊による真理への鍵が無ければ、クリスチャンは盲目で、もはや実質は無い。

 この聖霊の働きは、クリスチャンが各個人で絶対的に信頼すべきものなのに、実に多くのクリスチャンが中心に据えていない現状がある。「自信が無い」と言い訳をするか、この世のものに目と心を奪われるかして、聖霊の与える心の思いを退け、聖書や教会で、この世的な思いで見聞きしたことを全体主義的な教えとして捉えて、それに帰依し、救いの保証と思い込んでいる。これでは、一人一人と共に居ようとキリストを送った神の愛と臨在は、なおざりにされてしまう。

 人生は基本的に一人だ。自分個人の信仰生活には自分で責任を取らなければならない。そして自分一人の心の領域で、愛の神を知り、それを唯一の道の光として歩むのだ。

 それこそがクリスチャンのアイデンティティ。

 

 

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