カリスマは、愛ではない。
y.niho
奇跡による人の癒し、よみがえりは、人の救いの事柄に付随する神の手だ。
しかし、近年この超自然的な、病・怪我の癒し、死人のよみがえりを、キリスト教伝道の手段と主張する、キリスト教会がある。これを「カリスマ運動」と呼ぶ。
手段は愛の本質ではない。
愛とは、心の問題であり、相手を思いやる気持ちだ。
私たちは毎日多くの人とふれあう。例え、話はしなくとも、また、知人ではなくとも、周囲に人は溢れている。
私たちは、知人ではなくても、目の前の人間に対して「愛を抱く」ことができる。親切や助けなど。私はそういった普通の人間関係での愛の力を信じ、また、人が愛に気付く機会になると思う。
「カリスマ運動」では、多くの人が奇跡を見て神を信じる様になると期待する。しかし聖書の中には癒された人が必ずしも神の愛に気付くとは限らない例がある。ルカの福音書17章では10人の病人が癒されたが、神を信じたのは1人だった、とある。また、キリストの十字架刑の時には、5000人の給食を受けた人々(マルコ6章)などは、どこに居たのだろう?数々の奇跡・癒しの体験者がキリストの十字架刑に反対した記録はどこにもなく、12弟子までが逃げ出している。
カリスマも愛だと主張する人も居るが、愛の純粋な意味が、必ずしもカリスマだけを指すのではないことは、明らかだ。
まして、カリスマ運動による奇跡の強調は、「神=奇跡」という、非常に単純な構図を人の頭に植え付けている。聖書の主張する信仰がそれほど単純ではないことも、これまた明らか。
さらにカリスマに因る癒し奇跡を行う「人間」が、注目賞賛される事に到っては、もう、人の心の中に神の愛という焦点は消失している。あとは、「その人間が語る『神』」を信じるのみだ。人はその人間について行く。
神の本質は愛で、人はその神のかたちに造られた。(創世記1:27)
人の中には愛に反応する資質があり、それを選び、また捨てる選択をする。
目に見える奇跡を信じることと、愛を信じることは同じとは言えない。
02.12.15
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