Sクリスチャンセンター問題の資料>サイトマップ>キリストによる救いのすばらしさ
管理人仁保が04年3月12日に中澤牧師とお会いし、TLCCCやキリスト教会の問題についてお話をした時、その関連として、教会と世をニ分している神学の問題に話が及びました。「この世がサタンに支配された世界であり、クリスチャンは自分を清く保つべきだ」という勧めは、保守的な教会の多くで語られてきたことです。Sクリスチャンセンターはそれを極端な形で強調し、会員を縛りつけています。ここではその従来の神学に「愛」の視点を入れた神学の流れをまとめたセミナー資料を、許可を得て掲載します。
あくまで原則的なことがまとめられていますので、深読みせず、ただキリスト教信仰の原則の確認として用いていただければと思います。
日本バプテスト教会連合大野キリスト教会の中澤啓介牧師が当HPに本稿の掲載を許可しています。
キリストによる救いのすばらしさ
中澤啓介
大野教会教育セミナーより
2004年1-3月
あいさつ
今回の3回にわたる教育セミナーで話したい中心的なポイントは、救われるとは「創造の目的を完成すること」にあり、それは「神を父と仰ぐこと」にあることを明らかにすることである。
- 21世紀の教会形成を念頭において
新しい酒は新しい皮袋に
アメリカの新世代の牧師たちに関するレポート
- プロテスタントの主任牧師324,000人の内45,000人(2年前は22,000人)は、Baby Busters (20-38才)である。彼らは、コミュニケーション、教会に対するイメージ、神学教育、若者たちへの共鳴、牧会的な働きの5つの分野において、彼ら以前の牧師たち(Baby Boomers及びBaby Builders)の意識とかなりの違いを見せている。
- 21
世紀には21世紀にふさわしい聖書の読み方、神学が存在するはずである。
- 21
世紀の人々の動態、日本及び国際社会の変化、様々なキリスト教グループの動き、福音派及び福音主義者の動向をしっかり見据えることが重要である。
2.
「愛の神」を信じることがすべての出発点である
- どのような教会を形成するかということは、結局のところ「どのようなキリスト者を育てるか」ということにつきる。
- キリスト者にとって、「神がどのような方である」ととらえるかは信仰生活のキーである(マタイ
25:24-25参照)
- 神に対しては様々な見方がある。
- 神概念は、その人の世界観、歴史観、人間観、人生観、価値観、道徳観に大きな影響を与える。
- 「救い」は「愛の神」を信じる、あるいは「神が父である」ことを信じるに尽きる。
3.
多くのキリスト者は、神を裁判官のようにとらえている
- 自分が普段どのような神概念を抱いて歩んでいるのか振り返っていただく。
- 多くのキリスト者が潜在的に抱いている神の姿は「裁判官」のように思われる。
- キリスト者の神概念は、なぜこのような「裁判官」のイメージになってしまったのか。
- 自分の罪、不信仰、不十分さを自覚させられるので
- 聖書的な神概念を十分教えられていないので
- 神の超越性や主権性を強調する神学が伝統的に強いので
- 主知主義的信仰が強く、生きた神体験が軽視される傾向が強いので
- 宗教組織(指導者、団体)にとって好都合なので
- 神の本質は愛である
- 聖書の中には、神に関する様々なメタファー(隠喩)がある。
100以上のメタファーが掲載
メタファーは、類比とは異なり、その例えによって何を言おうとしているのかを推測する必要あり
- 例えば「裁判官」、「王」、「羊飼い」などのメタファーは何を意味しているのか
4:16-19、ローマ5:8)
「神の愛」という本性は、他のさまざまの属性とは違った位置にある
- これまでの神学、信条、信仰告白では、「愛」は聖、義、永遠、不変、偏在、全能、全知などと共に、神の属性の一つに過ぎないと考えられてきた。しかし、愛はそれらの属性と同等ではない
- 聖とは、絶対他者という概念で、被造物が造られて初めて意味がある
- 義とは、罪との対立概念である
- 永遠とは創造の中で生じる概念である
- 不変、偏在、全能、全知等の概念は、人間経験との類比において成り立つ
- 愛は、これらの属性のように被造物の存在を前提としたものではない
- もし愛を根底的なものと想定するのでなければ、なにを想定すればいいのか
- 神の活動はすべて「愛」を原動力にしている
- 三位一体の神は、ご自身の存在の中で愛の交わりを充足されている
3:35、5:20、15:9、17:23、24、26)
- 神は「愛」をすべての活動の原動力(根源)とされている
- 創造、被造物の保持、被造物への介入(啓示的な行為)、贖いの業、被造物の完成など
- 旧約聖書に出てくる神の怒りの出来事はさほど多くはなく、特別な出来事
- 裁きは一時的で、愛は永遠であることを強調(出エジプト
20:5-6、イザヤ54:7-8)
神の怒りにはイスラエルの民を育て上げるという目的があった
- 神は、人類及び神の民が罪に罪を重ねても、なお「愛」に基づいて罪を犯す人間に対応され続けている
- キリストの受肉の教理をこの点から見直す必要あり(ピリピ
2:6-8)
- 神はなぜ人を創造されたのか
1-2章の記録は、人間の創造について7つのことを明らかにしている。
- 神は三位一体の中で相談しながら人を造られた
- 神は人を最高の被造物として最後に創造された
- 神は「神の像」に従って人を造られた
- 神は人に地を支配させるために必要なもの(エデンの園と食物)を備えられた
- 神は人に神の戒めを守ることを求められた(神に対する愛の応答)
- 神は人に他の助け手を備えられた(共同体の必要性)
- 人間に関する上記の特異な点は、被造物の中で人間が特別な位置にあることを示唆している。
- 「神の像」の中にどのようなものが含まれるのかという点については教会史上最も活発に議論されてきたことである。それは少なくとも次の三つが含まれるものと思われる。
- 知・情・意など人間としての固有の能力
- 神が創造された地を神と共に管理するという使命
- 神及び人との間に生じる愛の交わりを楽しむ能力
- 神は人の自由を尊重されている
- 神はエデンの園に人を試すために木を置かれた。
- 人は神の愛に応えることも、拒絶することもできる存在として造られた。
- 神は「罪を犯す人間」を造られたわけではない。「罪を犯すこともできれば、罪を犯さないでいることもできる人間」を造られたのである。
- 罪の本質は、個々の罪の条項を破ることではなく、神の愛を拒むことにある
- サタン・悪霊・悪の存在、罪の起源などの問題は、キリスト教神学において最も神秘的で、不可解な問題である。この問題に関しては、神の主権という側面から見ると袋小路に陥るが、神が被造物に自由を与えられたという観点から見ると突破口が開かれるはずである。
- ただし人は結局、神から与えられた自由を正しく使わなかった。その点については神に責任があるわけではない。
- 人を拒まれたのではなく、人自らが神から離れる道を選んだのである
- 万人救済主義は、この観点から棄却されなければならない(もし新しい世界においてすべての人が救われるとすれば、この地上でそれを望まないと選択した人々も強制的に愛の関係に入れられてしまうということになる)
- ただし神は、堕落後の人間から創造時の使命を取り下げられなかった。
3:14-19)
- 神は、堕落後も人間の自由を尊重しつつ人類の歴史に介入されている。もし人間から自由が奪われてしまうなら、それは人間ではなくなってしまう。神は人類の選択を許容され、その底にまで降って創造の完成に向かって働きかけておられる。このような理解に立つなら、次のような問題の解決にヒントを見出すことができよう。
- 罪や悪が存在することに対して
- 聖書の中に出てくる「神が悔いる」とか、「神が思い直す」という表現に対して
- 現在の国際社会に見られる不正義、不公平、戦争、テロなどの問題に対して
- キリストの救いは、「十字架による罪の赦し」である
1:23、ガラテヤ3:1、6:14)
5:8、Tヨハネ4:9)
キリストの十字架の苦悩は人類の罪の代償(ローマ3:25、Tペテロ2:24、3:18)
キリストの十字架の意味は苦しみより死そのものあり(ローマ5:10、Tコリント15:3、及びローマ1:32、6:21、23を参照)
キリストの復活は人に罪に打ち勝つ力を与える(ローマ6:4、8:11)
罪の結果もたらされた死に対する勝利(使徒2:24、ローマ1:4、6:9)
キリストの復活は永遠の命と御国で受け継ぐ復活の体の保証(Tコリント15:21)
4つの法則」による救いの提示は分かりやすく、効果的である。
- キリストの救いは、さらに「創造の目的を完成させる」ことにある
- 多くのキリスト者はキリストの救いを「罪の赦し」あるいは「天国に入ること」ととらえ、福音が与える豊かなメッセージに気づいていない。これは、キリスト者の歩みを極めて貧しいものにしてしまっている。
- 新約聖書は福音が多様なメッセージ(内容)をもっていることを示唆している。
- 神の国(イエス)
- 信仰義認及び和解(パウロ)
- 永遠の命(ヨハネ)
- 新しい契約(ヘブル)
- 信仰に基づく義(ヤコブ)
- サタンに対する勝利(黙示録)
- 教会史上においても、教会・教派の中に(キリスト者個人においてもそのことは言えるのだが)、多様な福音理解の痕跡をたどることができる。
- イエスに似た考えに強調点を置いているのは改革派・長老派
- パウロに似た考えに強調点を置いているのはルター派
- ヨハネに似た考えに強調点を置いているのは生まれ変わりを強調する福音派
- ヘブルに似た考えに強調点を置いているのは儀式を重んじる聖公会など
- ヤコブに似た考えをもつのは「きよめ」を重んじるホーリネス系の教会
- 黙示録に似た考えに強調点を置いているのはカリスマ系の教会
- 福音はこれらすべてを含んだ豊かなものであり、相互に排除すべきものではない。
- 人の脳力には限界があり、神の豊かさを独り占めすることはできない。
- ここにエキュメニズムの神学的な根拠があると同時に、エキュメニズムの重要性がある。
- キリストの救いは、堕落によって傷ついてしまった「創造本来の目的」を回復することにある。
- 神との和解によって愛の交わりが回復される
- 傷つけられた「神の像」が修復される
- 地の支配に対して再任命される
8:3-9、ヘブル2:6-13の講解
- キリストの教会は、創造の完成としての「共同体」の姿を表わすと共に、再創造のみ業の「先取り」、あるいは「中核」である。
- キリストの救いは神を「アバ父」と呼ばせてくださる
14:36)
- イエスは三位一体の一位格であり、特別な意味で「神の子」
- イエスは常に自らを弟子たちと区別され、神に対して言及されたとき、「わたしの父」と「あなたがたの父」と区別して話された
- キリスト者は聖霊を受け、神を「アバ父」と呼ぶことができる(ローマ
8:14-16、ガラテヤ4:6参照)。
- 新約聖書には「私たちの父である神」という表現(あるいは類似した表現)がたくさん出てくる
- キリスト者は「キリストとの共同相続人」にされている(ローマ
7:17)
キリスト者は同じ父をもつ兄弟で、神の家族である(エペソ2:18-19)
- 「神が父である」とはどういう意味か
- 「神が父である」というメタファー(隠喩)が意味していないことを読み取ってはならない。
- 人間、男性、年令、権力、子との同質性、不幸な父親体験など
- 「神は父である」というメタファーが意味していることを推測すべきである。
- 新約聖書は、父という言葉をさまざまな事柄と結び付けている。
6:36)、赦し(マルコ11:25)、権威をもっていること(使徒1:7)、慈愛(Uコリント1:3)、栄光(エペソ1:17)、聖霊をくださること(ルカ11:13)、必要なものを備えてくださること(ルカ6:36)、御国を与えること(ルカ12:32)、聖徒の相続分にあずかる資格を与えてくださること(コロサイ1:12)、みもとに近づくことができること(エペソ2:18)、すべてのものの源であること(エペソ3:15、4:6)、懲らしめを与えること(ヘブル12:9)、完全な賜物をくださること(ヤコブ1:17)、人をそれぞれのわざに従って公平にさばかれること(Tペテロ1:17)
- 自分たちの日常経験から、父と子の共同作業、そのときの父子の気持ちを考えてみよう。
- 子にとって父(あるいは母)の愛ほどすばらしいものはない
- 「神は父である」という認識はキリスト者の歩みを大きく変える
- 神によって絶えず愛されているという意識をもって日々の生活が歩める。
- キリスト者の祈りは父との親しい会話であり、それに勝る喜びはない。
- 父への祈りには、二つの矛盾した要素が混在している。
- 祈りは父のみこころに自分の思いを合わせることである(これは神の主権を強調した場合の祈りの本質)
- 祈りは父のみこころを変える(動かす)ことができる(これは神の人格性を強調した場合の祈りの本質)
- 神は父としてのお姿を聖書の中に啓示された
- 多くの人は旧約聖書の神に対して疑問(あるいは戸惑い)をもっている。
- (旧約聖書はグロテスクな神を教えている)
- (旧約聖書の神と新約聖書の神は違う)
- (創世記の記録は創造神話である)
- 聖書は神の啓示であるが、人間の言葉で書かれなければならない。しかし、人間の言葉は神について語るのに限界がある。これは、神の啓示において致命的な(不可避的な)問題である。
- 神が人間に神ご自身に関することを伝えるには、直接体験を記述すること、類比的な言語を使うこと、メタファー(隠喩)によって表現すること以外にない
- 神の介入は、ある特定の時代に生きた人々に対するものである。従って、ある時代に起こった出来事を抽象化・一般化し、そこからキリスト教教理を導出することは慎重にしなければならない。
- 神の出来事はその体験者の限界内で起こることである
- その記述もまた、その時代の制限内でなされざるを得ない
- しかも神の啓示内容は、ある文学様式(文学類学)に基づく文書を通してもたらされている
- 文学様式とは、法律書、歴史書、詩、讃美歌、神学的な歴史解説書、格言集、劇の脚本、福音書、書簡、黙示文学などを指す
- 聖書のすべての表現は、この種の文学様式の特色を踏まえて解釈しなければならない
- 聖書を新しい光のもとで読む
- 聖書信仰に立たない限り、キリスト教の正統的なメッセージは保持されない。
- 神の介入、啓示的行為、永遠の真理の発見、教理体系の構築の重要性
- 聖書以外のものを掲げると、それが規範的な位置を占めてしまう
- 教会史は、聖書を権威ある正典の書物として読むことを重要視している。
2世紀以降聖書の正典化をはかり、その聖書に基づいて議論を展開してきた。宗教改革者は「聖書のみ」を標語にして戦い、啓蒙時代以降のキリスト教は、聖書に立って自由主義キリスト教との戦いを展開した
- 聖書から神のメッセージを受け取るには、聖書に書かれているままに、素直に読むことが最も大切である。普通の人が普通のセンスで読むなら、聖書は分かるはずである。
- 祈り深く、聖霊の導きを求め、日々神からのメッセージを聞き取っていくという読み方こそ、聖書本来の読み方である。
- キリスト教信仰や倫理を前提にして、不都合なところは霊的メッセージが隠されていると考えて読む読み方から解放される必要がある
- 聖書の言明をそのまま読み、神がいかに人と関わっているかを読み取ることがコツである
- 今日の社会、政治、文化状況との類比点を意識しながら読んでいく
- 自分の生活に対して当てはめて読んでいく
- キリスト者の行動原理は「愛」である
20:6)
シェマー・イスラエル(申命記6:4-5)
神がイスラエルに求めていること(申命記10:12-13、11:13、13:13、30:6)
律法と預言者は、神と人への愛を説く(マタイ22:36-40)
21:15,16,17)。
キリストと弟子たちの関係は愛の関係だった(ヨハネ14:21、23-24、28、15:9-10、16:27)
キリスト者は父の愛が完全であるように完全を求められている(マタイ5:48、エペソ5:1-2)
新約聖書は「キリストの律法」(Tコリント9:21、ガラテヤ6:2)、「自由の律法」(ヤコブ2:12-13)を教えている。
13:34、15:12,17であろう(Tヨハネ4:21)
互いに愛し合うことこそ神がキリスト者に求めているものである(Tヨハネ3:11、4:7、11、12、20-21、Uヨハネ1)
- キリスト者は愛以外の動機で生きることが許されていない(ローマ
14:15、Tコリント16:14、コロサイ3:14)
自分の生き方の証し(Uヨハネ1)
- この愛は聖霊が注いでくださるものである(Tコリント
13:)
愛に生きるとき、この世に対し最大の証しがなされる(ヨハネ13:35、17:23、25-26)
- 宣教の不信を嘆く必要はない。愛の共同体は何よりも強いのである
結論
この三回にわたる教育セミナーを終えるにあたり、私たちが考えねばならない課題は次のようなことである。
「
21世紀を迎えた私たちが、今世紀に形成していかねばならない教会とは何だろうか。古い創造の完成であり、新しい創造の先取りである『キリストの体なる共同体』の実態はいったい何だろうか。」
結局それは、神の愛に帰り、キリストの愛に答え、聖霊の愛を実践していくことではないかと思う。
Sクリスチャンセンター問題の資料>サイトマップ>キリストによる救いのすばらしさ